水石随想 「水石とともに」 山水園園主 笠原 学 (上巻)

月日がたつのは早いもので、私が脱サラをして水石の販売の道に入って四十余年になります。 気が付けば私が師としていた人たちはすでに亡く、業界でも古株となってしまいました。 大勢の業者の人たちと時々話し合う時、古き時代を知る人が少ないのに気付きました。 そんな時、樹石社の紺野氏の勧めもあって、私なりに歩いてきたこの道を自分の知る範囲で、 記憶に沿って述べさせていただこうと思います。


そもそも石愛玩の趣味は、昔中国に遣隋使や遣唐使として送られた五山(山は寺院を指す)の僧侶たちが、 彼の国の文化を持ち帰った中から始まったと思われます。 当時中国では役人(官吏)になるのに文武はもとより書画の技量にも秀でなければならず、 その練習のために机上に置いた石を写生していたことから、より良い石を求めることが始まったようです。


そのようなことに触れる時、中国の米元章「米癲」を欠くことが出来ないと思います。 それは幾多の文献より知り得ることです。

しかし当時石を愛したのは、米癲一人だけでなく、白楽天や蘇東坡にも愛石の詩があり、 唐、宋時代以来我々の知る中国の詩人や画家で石を愛でなかった者は皆無と言った方がよいと思います。


「素園石譜」水石の世界、それは間違いなく日本人の心の世界でもあると思います。一つの銘石を眺め俗塵を離れ自然の世界に遊ぶ時、石の「こころ」を感じます。それは他の国では見られない身近な所で大自然の文化を感じることの出来る日本人だからだと思います。


そうした日本人の身に付いた自然観に対する憧憬や美意識が日本で開花した禅や茶道などと深い関係を 持ちながら、室町、戦国、江戸時代を経て日本の風流道の中核をなすに至ったと言える、でしょう。
そうした美意識があらゆるものをミニチュア化して楽しむ日本人の縮小化の好みと相まって 茶・華道や盆石、庭園等の造形美術を経て、単純化された水石鑑賞の世界をつくり出してきたと思われます。


そして水石鑑賞の精神は、 日本の伝統的芸術鑑賞の最も高い位置づけを得て最後の道楽と言われるようになったと思います。


水石の道は江戸時代に入ってなお一層文人墨客の間に隆盛を極め、頼山陽、浦上春琴などの愛石家を 輩出しました。 そして、その流れは庶民の間にまで広がりました。
そうした芸術鑑賞の心が明治以降、西欧文化の波に圧迫されて急激に衰え始めると、 その影響下にあった水石も次第に影が薄くなり、細々と巷の趣味家によって保たれてきました。


そして昭和に入り、第二次世界大戦後、美石趣味の登場によって絵画や石ブームとただただ驚くばかりでした。 この美石の登場は水石界にも様々な混乱を引き起こしました。
 しかし石の愛好者を生んだ点では大きな役割があったと思います。 それは当時の水石趣味者の多くがその中から生まれたことからも言えるでしょう。


そんな頃、岐阜県の根尾谷から菊花石が産出され、その不思議な成因と美しさから皇室にも献上され、 クリザンテマムストーン(禁裏の御紋石)として世界に紹介されますますブームに火がつきました。


そうした中で明治時代から1個の石で大自然の情影を鑑賞する水石と呼ばれるようになった石の趣味が 盆栽愛好者の中に引き継がれてきたようです。
 異様なブームで始まった美石主体のそうした状態に憂慮していた盆栽業者たちが、 当時日本橋の三越デパートに園芸店を開いていた清楽園の岡村逸造氏と豊香園鈴木倉吉氏と共に 三越園芸部に呼び掛け、昭和36年日本水石協会の名の下に、日本経済新聞社の共催を得て 7月に三越百貨店で初めて展示会と即売会を開くことになりました。


外商の方たちの宣伝努力や物珍しさも加わって開館前から長蛇の列が出来るほどの賑わいだったそうです。


その時、主に活躍された方々が、斉田泰正、吉村悦二、村田憲司、村田久造、小出信吉、竹山房造、 斉田展二、仁男兄弟、加藤三郎氏など当時盆栽界の連合艦隊と言われた人たちです。


---中巻に続く。---
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