その一回目の展示会に私の勤務先の専務であった宮坂隆知氏が見に行かれ、
香樹園さんの売店にあった水石を注文して帰られたのが京都の紅流しで、
山の形状といい紅の流れ具合といい、一級品で、いまだにあれ以上の紅流れの石にお目にかかれておりません。
それから夢中に石集めをされた宮坂氏が、ある時、登山帰りの私をお茶に誘ってくれ、
私が手にしていた頂上の石を見ながら「俺の所にも面白い石があるから見に来い」と言われ、伺いました。
石の中にこのような見事なものが有るのかと大きな衝撃を受け、目を見張るばかりでした。
その後社内でも多くの愛好者が増え展示会をやったりして楽しみました。
その時、初代の会長の甘露寺様がお見えになったりで、社内でも和が広がり、その中で会社の業務も、
打算や駆け引きなく上下を超えて話が出来、上司はこれを「石徳の余慶」と言っておりました。
そして美しいもの、自然の情景への目が開かれ、広い付き合いも出来、
服装や言葉遣いにも良い変化が感じられました。
一般的には、何といいましても高尚な趣味者として名を残した人たちはある程度買い集めた人の
格調にはかなわないものがあると思います。
その代表的な人の中に私たちの間でよく知られているのは「頼山陽」で、京都北山で大原女や
子供たちに拾わせた石の中から厳選された物が、今「山陽資料館」に保存されています。
また三井財閥としても名高い辻横の人として知られた郷正之助などで、長い間持ち込まれて
大切にされてきた水石は、時代ものりその品格は、一見して観る者の心を奪います。
(水石の歴史や愛石趣味の母体、観賞、収集、演出の基本は「石の事典」立風書房発行などが
参考になります)
私が業者の仲間入りをして最初にお世話になった香樹園の脇床に、小杉放庵の 「この石や火の代、水の代、神の代に、いく世へに経て我と相みる」という書軸が 掲げられていましたが、いまだに心に残っているのは正に石を愛する人の心の内を吐露した 名文句だと思います。
第一回水石名品展が三越百貨店で開催されたその頃から、水石に対する関心も高まり、
香風園さんと松竹園さんによって売り出された岩崎家の番号石なるものが世に出て、
この世界も空前のブームになりました。
名品展に飾る石も百二十位に絞らなくてはならず、審査という手段となりました。
まだまだ業者間の意思疎通に欠けていたため、うぶ石にこだわり、切り石は駄目ということで、
形が良くても、何十万で購入した石が落とされたり、川から拾ったばかりの石が入選するなど、
お互いに納得できない事態が生じ急速な陰りが出てしまいました。
その頃、新宿の百人町に四国出身で碁会場を開いていた方があって、その入り口に棚を造って四国の石を中心に美石や古谷石が置いてありました。
そこに香樹園の御子息である村田圭司氏がおりました。
経営する化粧品店が火事になり焼け出されて何故か手伝いをしていました。
(このところの事情はよく分からないけれど)
そして徳間書房から声が掛かり共同で月刊誌を出版する事になり、香樹園さんのお客さんの熊勢萬さん
(当時の法学校から同省に入り、大阪地方裁判所長、札幌、名古屋控訴院長を歴任後、弁護士をされていた人)で、その著書「樹石」からその名を頂いて、盆栽と石の本ということで売り出されました。
東洋大学文学部出身という村田圭司氏の才能と盆栽界の重鎮のお一人であった香樹園さんの力も
あって売上高は伸び続けました。
そんな時期、徳間書房が独占しようと計画してきましたが、水石協会副会長の高橋貞助様が
骨折って盆栽界がこぞって村田圭司様の支援に周り、村田氏が樹石を発行することになりました。