樹石社は、私が店を開いた頃は文京区千駄木の片山貞一さんの所でした。
その当時樹石社は、社員も少なく発行日には、若手の私たちは発送のお手伝いに駆けつけたものです。
その頃、私は池袋に店を持ったのですが、最初は馴染みのお客様も少なかったけれど、
親しかった趣味仲間や勤務先だった会社関係の人たちがよく訪れてくださったりで、何とか過ごせておりました。
当時は静岡方面に出向くことが殆どでした。 夜中に東京を発ち箱根山を越える頃、燃え上がる太陽を見ながら焼津まで足を延ばし松原の食堂で朝飯、 それから清水、静岡と仕入れに駆け回り翌日昼頃帰途に就く、そんながむしゃらの日々だったことを 懐かしく思い出します。
その頃から十数年が過ぎてしまいましたが、最近私に少し時間的余裕が出来、昔からのお客さんたちと時々地方の展示会を回りながら探石などにも行かせていただきます。
売れるような物はなかなか拾えませんが、森林浴をしながら澄んだ空気の中で川の瀬音や、浜に打ち寄せる
波の音などもまた格別なもので、しばし静寂を味わっております。
それは何と言っても自分で無から手にしたもので愛着ひとしお、ベランダの棚に置き、
時代の来るのを楽しんでいます。
購入した物より費用を考えると高くつくけれど、時代が来るのを楽しみに出来るのは 探石ならではのことか?とも思います。
今、脱サラして四十数年、この仕事に就かせていただき多くの学びを得ることが出来ました。大自然の偉大な素晴らしさ、それに対する畏敬の想い、多くの人たちの生きざまを学ばせていただきました。 当時の時代を背負った錚々たる先輩業者の皆さんや、名だたる趣味者の方たちとお付き合いさせていただきました。
そのようなことから新しく業者になられた方たちからは「しばらく近づくことも出来なかった」と言われましたが、今はごく親しいお付き合いを頂いております。
このように一時代の過程の中で、先輩業者の方や趣味家の大勢の方たちの支えを頂き、水石趣味の世界で生活させていただき、何と有意義な人生を過ごせたことか、今ある幸せに感謝するのみです。
今、戦後六十年を経て、国家再建に己を忘れ、高度成長を支えてきた人たちから、団塊の世代の人たちが 定年を迎える時になりました。 われ先にと良い学校、良い職場を過ぎて心の安らぎ(癒やしとも言いますが)を求める時代に なってきたことを感じます。
これからどんな道を辿るか人それぞれと思いますが、こんな時、業界全体でこの趣味の素晴らしさを 世間に訴えることが出来たならば、大勢の水石趣味者の参加を得られることは必定だと思います。 また、それだけのものが蓄えられているのが水石であると私は確信致しております。
最後に、いつの日であったか、メモを取らせて頂いた東山魁夷先生の言葉を載せていただきます。
―――優れた画家であり書家であった米癲が、その奇行の中に石を拝したことが伝えられ、 卓越した教養人であり芸術家であったこの人が天地の間に悠然としている石を前にして自分を 無に成し得た敬虔な祈りであったか、それとも反世俗の気骨からか、私には分からない。
しかしそれが奇行として伝えられている中国と、日本人の石に対しての緊密な心の繋がりとの間には 差があるように思われる。
日本人の好みは自然の情趣に対しての深い愛着と、こまやかな心の通い合いを持つものであり、 本道を行く愛石家の蒐集に良く表れている、と思えるのである。
それ等の石は、私達に親しく清らかであって、大地の生命を秘め豊かな想像の世界を形成し 無限の楽しみを与えてくれます。―――
「別に大貫忠三さんの発行された「水石」の図録にも東山魁夷先生が(無限の楽しみで)書かれていますが、 先の項ご存じの方があったら是非お知らせいただきたいです。」<完>
与十郎石について、補足させていただきます。
揖斐川石は古くから盆石の産地としての名があり、
徳川末期の揖斐川町領主であった岡田雪台公の伝承石として(銘)「雪山」が、残されていて、
百数十年の歴史を物語って揖斐川町の重要な文化財的存在となっているとお聞きします。
そんな歴史と銘石の産地にふさわしく、石彫の名人が存在していたようで、そんな中、昭和40年頃、通称石の甚五郎と言われ、揖斐川町で無形文化財に指定されたといわれる、佐野記一翁が健在でした。
富士山を主峰に連山の作柄で、「雲井の富士」は、かつて昭和天皇の天覧に浴したと言われています。
この人の刻した中で、ちなみに「富嶽」は特に優れているといわれていました。
今どなたが愛蔵されているか消息を知りたいものです。
この石彫刻と坂井さんの与十郎とは、作柄、石質、共に違いますので、念のため補足させていただきます。