水石入門 日本の愛石

一城と交換した「末の松山」

西本願寺の「末の松山」
徳川美術館の「末の松山」

日本の愛石史の中で、大名物石となっている「末の松山」は二石ある。そのうち、京都、西本願寺、寺宝の「末の松山」は、長さ16cm、高さ5.5cmという、一握りの石が、戦国時代の武将織田信長によって、今の大阪城の前身、石山城と交換した、と伝えられる一大名物石である。


伝承によれば、この石は、遣唐使五山の禅僧によって伝来し、相阿弥が愛蔵していたが、室町時代の文明15年(1469年頃)足利義政が、京都東山、月待山の麓に東山殿を造った時、相阿弥から義政に献上され愛玩されていた。さらに、その後、織田信長のものとなった、という唐石である。

ところで、石山本願寺は現在の大阪城本丸にあったが、時の天下取りをねらう織田信長にとって、ここは戦略上重要な位置にあった。そのため、元亀6年(1576年)信長は、この寺を攻め取ろうと兵を向けた。 しかし、全国の一向門徒の団結や、紀州の雑賀・根来衆などによって、この石山城は、その後11年間もの長きにわたる攻防戦が繰り返されたが落城しなかった。信長はやむなく、時の天皇に上奏して、和を乞い、天正8年(1580年頃)ようやく兵を収めた。 この時、信長から呉器一文字茶碗と共に、この「末の松山」が本願寺に贈られ、この城は信長のものとなった。


つまり、方寸の名石「末の松山」は後に天下の名城大阪城となった石山城と交換されたのである。


後醍醐天皇を救った・名石「夢の浮橋」

「夢の浮橋」

室町時代(1393年頃)の、その昔、我が国五山の禅僧たちによって、今の中国から持ち帰ったといわれる。


この「夢の浮橋」という名石(長さ28.8cm、高さ4cm、奥行5cm)は、初め足利将軍に献上され、その後南北朝時代(1331年頃)に後醍醐天皇の愛玩石となった。
そして、戦乱のさ中にも天皇はこの石を懐中にして、笠置や吉野へと持ち廻った。

例えば、鎌倉幕府倒幕計画が知れ、捕えられて隠岐(日本海側島根半島沖)に流された時には、肌身離さず持って愛玩し、そして、足利尊氏の反乱に際しては幽閉されたが、脱出して吉野に赴き、南朝を開いた時にも護身用として持って回ったという。

いわば、この石は後醍醐天皇のお守り石となった石である。


この石は、当時から有名石種であった、中国産の霊碧石とも見える真黒の石で、形は、いわゆる長石(ながいし)と言う名石形の石で、左に丸い小山があり、その前に平たい岡があって、右に延びるに従って、土坡(平野)があるという段石形の土坡石で雄大な景をもち、長年月にわたる、持ち込み味を深ませているものである。

この石を水平の地板などの上に置くと、底部の中央付近が少し浮き上がり、空間の出来る石なので、「夢の浮橋」の名がある。


この石は、その後も、いく度かの戦乱の中をくぐり抜け、世の人々の栄枯盛衰、天変地異の日本の歴史の中をよく生き続け・・・。

その後は豊臣秀吉、徳川家康を経て、尾張徳川家伝来の石となり、現在は徳川美術館蔵となっている数奇な運命をたどった有名な石である。


怪異を現した「さざれ石」

千里浜で拾われた「さざれ石」福王寺・旧蔵・広島

「さざれ石」は貞観5年(西暦863年)の頃、紀伊の国千里の浜で、夜な夜な光っていた石を浦人が見つけ拾われたもので、その後、この石は時の右大臣藤原良相がもらい受け、さらに、その子常行から山科の禅師へと次々に渡り歩き、後醍醐天皇の観応2年(1352年)の頃、中納言公忠の手に移った。

その後、公忠は勅勘により安芸の国(広島)へ左遷された時、安芸の守護武田伊豆守氏信の手に渡って城中に納まった。ところが、この石は昼夜鳴動してやまないという、不思議な出来事が続くため、氏信はこの石を福王寺(広島市)へ納めることにした。

また、大江輝元も、この石を城中に持ち帰ったところ、また鳴動が激しくなるので、輝元は城中に一夜とめたのみで福王寺へ返した。その、不思議なことに持って来るときは人夫八人の手によって運んだが、返す時には僅か一人の手で運んだといわれる。

また、戦国の武将福島正則もこの石を見て、奇特を現せと扇で石を叩いたところ、一天俄に掻き曇り、大雨が降り続き大洪水となったといわれている。さらに、豊臣秀吉もこの石を見た記録もある。このように霊異を現す怪石として、この石は有名になった。


ところで、この「さざれ石」は、日本の国歌「君が代」の歌詞にもなっている元歌の石で・・・・・・拾われた所は、紀伊の国千里の浜であることは、伊勢物語や諸国俚人談、紀伊読風土記、木内石亭の「雲根志」などに詳しく載っている有名石。

この石が発見されたのは先にも説明したように清和天皇の貞観5年(863年)今から約1200年前の頃で、愛玩石として古文書に載った石では最も古いものといわれる石である。


私が、この石に会ったのは、昭和50年頃であった。この石の大きさは長さ約8.5cm、高さ約40cm位の大きさで、石灰岩質のような白っぽい石で、約30cm位の厚い板の上部を少しお盆のように掘り込み、縁や台座の下部も少し彫刻されたもので、いわば、その昔この石に合わして作られた古色蒼然たる台座であった。したがって、わが日本での愛石歴史の中では、最も古い石であり、台座であると言うことが出来るだろう。

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ところで、それ以来広島の福王寺にあって、あの原爆にもめげず、昭和の世まで生き続けてきたこの石も、昭和52年9月30日、福王寺本堂への大落雷により本堂と共に焼け落ち、無数の破片となって飛び散り、跡形もなく消え失せたという。


怪異を現し、宗教的霊異石として、最後まで数奇な運命をたどった石である。 谷本百穂 著(H.Tanimoto)


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